Mail#79 チャビリンスク


東海村の事故の裏を、新聞ではなく、週刊誌が報道をはじめている。 インターネットで新聞が読めるこのご時世で、事件の表面づらしか報道しない日本の大新聞紙の存在そのものが問われているのだ。

話は変わるが、ここであまり知られていない原発以外での大事故を紹介したい。
(参考文献:「ジョンウェインはなぜ死んだか」1982年12月文芸春秋刊行)

1976年、英国の科学誌”ニュー・サイエンティスト11月4日号)に発表され、ヨーロッパとアメリカに大センセーションを巻き起こした事件がある。 ソ連人科学者、ジョレス・A・メドベージュフが報告した”ソ連のチェリヤピンスク地域の巨大な放射能汚染”である。 CIAが執拗にするどい反論を加え、全世界の原発シンジケートが、そのCIAの肩を持ち、欧米のジャーナリストが応酬して激論をたたかわせた。 メドベージュフは、ソ連の反体制活動家として母国を追われたが、本人は普通の市民的な感 情から活動したにすぎない。反体制ではあっても反ソ的な面を持たない。むしろソヴィエトを 愛している。その科学者が故国の悲創を伝えようとした時、なぜ西側の原子力関係者がメドベージュフに攻撃を加える必要があるのだろう。                 彼自身、この疑問に答えている。「東側と西側を問わず、これは都合の悪い事件である。原子力発電の廃棄物が重大な問題となっている時代に、大事故を暴露されてはまずいだろう。」 しかし、1979年(スリーマイル島事故の年)に、このソ連人が詳細な事実経過を一冊の本にまとめて発表し、すべてのデータを突きつけた時には、これに反論できる者はいなかった。

1960年ソ連の科学者レフ・トゥメルマン(のちにイスラエルに亡命)が自動車で奇妙な地域を通過している。 「ここから三十キロのあいだ、絶対に自動車をとめず、最高速度で通過せよ。車から外に出ることを禁ず」の立て札があり、 道路の両側には、破壊された家があるばかりで、人と動物の影ひとつなくゴースト・タウンと化していた。 一帯の放射能は異常に高く、その廃墟の広さが数百平方キロにもおよんでいたという。 人家が破壊され、焼き払われていたのは、放射能で汚れた家財道具を取りにもどる人間が出ないように、との配慮からだった。 しかし、正確にいつ、どこで、どのようにこの大事故が起こったかを知る者は、ほとんど居なかった。 かなりの数にのぼる科学者が動員され、動物や植物がどれほど汚染されているかを調べる作業にあたったが、調査の結果は最高機密に属し、公表を一切許されなかったからである。

メドベージュフは、そのチェリヤピンスク現地に作られた汚染研究所で、研究室の室長をつとめるよう要請されたが、”そこで見聞きしたことを誰にも語ってはならない″という秘密主義に不審を抱き、この要職を断った。 しかし、その地域の放射能汚染がただごとでないと察知した彼は仕事のかたわら、丹念に科学文献を調べてゆき、この汚染の全容をつきとめる作業に精力を注いだ。 そして、数多くのデータのなかに共通するひとつの嘘を発見した。放射能の汚染の単位を、千倍もいつわって小さく書いてきた科学者の一人が、ある時、書き替えを忘れたのか生のデータを提出してしまい、 それが公式の文書にプリントされたのである。

メドページエフが調べあげた周辺の異状は、つぎの通りである。 わが国で言えば中禅寺湖ほどの広さを持つふたつの湖全体から、ストロンチウム90などがぞくぞく検出され、1000億リットルの湖水がすっかり放射能づけになっていることから、 オピ河から北極海に至る数千マイルの河川が汚染されていることも明らかだった。 一帯の動物を捕控してみると、毛皮に使われるイタチ類、トナカイ、鹿などの大きなものから、野ネズミに至るまで、広大なステップ地帯の生き物が放射能で汚れきり、 蛙、カブト虫、クモの類はほとんビ完全に死滅していた。 湖の鯉、スズキ、カマスからも異常な放射能が出ているが、興味深いのは、水中の放射能に比べて体内放射能が平均1300倍の濃縮度を示し、最高4200倍になりながら、 魚が湖水のなかを泳ぎまわっていた事実であろう。  さらに、行動範囲の広い鳥類も、カササギ、ムクドリ、スズメ、カモ、ライチョウ、フクロウ、キツツキ、ツグミなどがすべて汚染され、中央ウラルと南ウラル全域で、 鳥の狩猟が何年にもわたって禁止されていた。  樹木は、ポプラ、松、モミなどが枯れたり落葉していたが、根さえ残っていれば、やがて新しい芽を吹き出ず不思議な生命力を見せた。 もうひとつの不思議は、蟻が生き残っていたことである。 木の根と、蟻、すなわち地中の生物たちが、なにか魔力を秘めているかのように地獄のウラルで生き続けたのだった。
 さて、肝心の人間はどうなったのだろう。どこへ消えたのか。

 自由世界へ逃げのびた民間人ふたりの証言によれば、病院は放射能汚染の犠牲者であふれ、 その人たちは特別病棟に軟禁されたまま一歩も外へ出ることを許されず、ほかの患者との会話は禁じられ、誰一人その病棟へ立入ることも許されなかったという。 この証言者の一人は、当時おなかに子供を宿していたが、人工中絶を余儀なくされた。 それらの病棟は大きく、数百のベッドを持ちながらずべて満員で、近在の大都市のあらゆる病院もまったく同じ状態にあり、 二年後になっても患者であふれ、やがて、数千人の患者のほとんどが死んで行ったという。一帯の強制退去者は数万人におよび、 実際の死者の数は、いまだに不明である。近在の工業町は、地面がすべてアスファルトでおおわれた。

この大惨事について、メドページエフが下したひとつの推論は、こうである。 1957年秋から冬にかけて、チェリヤビンスク四十番地で、大量の放射能をまき散らす″大爆発″が起こったというものだった。 第二次大戦が終った翌々年の1947年、ソ連では、プルトニウム生産用の大型原子炉が南ウラルで運転を開始したが、 この南ウラルが、ソ連で最初の核兵器製造センターとなり、プルトニウム工場(わが国で言えば東海村にある再処理工場と同じもの)がここに建設され、 燃料棒から取り出された高レベルの廃棄物がみるみる蓄積していった。 重要なのは、核兵器の原料として取り出したプルトニウムではなく、無用の高レベル液体廃棄物だった。 ごくわずかのプルトニウムが排水の中に含まれてしまうことは、現在でも技術的に避けられない。 近代科学最高水準のテクノロジーをもってしても、″1000分の5″のプルトニウムは技術者の手から縄ぬけしてゆく。 (わずか0.5%のプルトニウムといえども、日本の原子力発電所の総量からは一年で ヒロシマ・ナガサキ級の破壊力を持つ原爆数個分のプルトニウムが廃棄物の中に入ってしまう勘定になる。)  その液体が漏れた場合、地面に吸いこまれ、特定の深さのところで、特定の部分にプルトニウムだけが異常に密集してくる現象が起こる。 その密集したプルトニウムがひとつの塊になり、一定の量(連鎖反応の臨界量四キログラム)に達すれば核爆発を起こすのである。 プルトニウムが泥のなかに集まってくる、集まれば過熱してくる、過熱すれば濃縮される。 濃縮が限度に達し、遂に土中で原爆が炸裂し、冬期に五十センチもの厚さに凍りついた土を破って、 空中高く噴出した。これはメドベージュフの仮説のなかの、ひとつに過ぎない。彼はそのほかにも、さまぎまの 可能性を提唱している。(しかし、高レベルの廃棄物が原因である主張は一貫して変らない。)

 <ジョレス・A・メドベージュフ>
モスクワの大学で生化学部長をつとめ、放射能と生き物の結びつきを研究していたトップ・ク ラスの科学者だったが、その事件について事実を知りずぎ、そのほかさまざまの内容を地下出版に よって報じたため、1970年”精神病者”として強制収容され、サハロフ、ソルジエニツイン らの必死の救援活動によって二十日後に救い出された。その三年後、渡英。




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