そのうちに一人の女が近づいてきた。ユダヤ人ではなかった。異邦人だ。
金切り声をあげるようなたぐいの女だ。はじめはイエスをみつめながら、道の端にそって走っていた。それからとつぜんひどいなまりでさけび声をあげた、
「先生、先生、ダビデの子よ、わたしに慈悲をたれてください。」
わたしは急いで先生のそばにいき、帰れといった。異国にいるときにさえ、
人々は彼を求めた。彼はひとりになりたかったのに。考えたかったのだ。
しかし、女はさらに声をあげた、「私の娘は悪魔に苦しめられています。」
イエスは歩き続けた。わたしは道をふさいで言った、「あなたはシリア人だ。
そして娘はシリア人だ。わたしたちはユダヤ人なのだ。その事実をみとめて、
わたしたちを放っといてくれ。」
しかし、女はわたしをおしのけてすすみ、イエスを追い、声をあげて大騒ぎした。願いを求めて。
「先生、すみません」とわたしはイエスに声をかけた。
「この異邦人に言うことをきかせることができなくて。先生から帰るようにおしゃって下さい。」
彼はそのときだけは、わたしの話をきいた。イエスは立ち止まり、女にむかって眉をしかめた。
それだけでも、おんなはぞっとしたろう。彼の言葉はもっとひどいものだった。
「わたしはイスラエルの家の迷える羊だけにつかわされたものだ。」
わたしが言ったとおり、ユダヤ人のためだ。 (ワォルター・ワンゲリン著。仲村明子訳。小説「聖書」新約編) 小説「聖書」旧約編を読むと、おぞましいほどのユダヤ人の選民思想に触れることができる。 新約編では、キリスト教の起源を辿ることができるが、やはりユダヤ選民思想を残している。 上記のエピソードは、それを感じさせる一編である。 その後、イエスは、このシリア人の娘を結局、癒す。 それは、結果、世界3大宗教としての発展を促す。 ユダヤ人だけの主にくらべて、新約聖書の中での主は(同じ主であるはずなのだが) 遥かに神としての慈愛に満ちている。
とっつきにくい聖書であるが、この著者のおかげで、
イスラエルとキリスト教・ユダヤ教の思想に触れることができる。
ボーダレス化が進む世界で、宗教を知ることも大切な情報収集のひとつだ。
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