Mail41 上級相


私の履歴書

日本の侵略

あれは忘れもしない。1941年12月8日の朝4時だった。ラッフルズ・カレッジの寮で寝ていた私は鈍い爆発音で目が覚めた。日本軍機が奇襲攻撃をかけてきたのだ。60人が死に130人がけがをした。日本との戦争が始まったのである。 授業は中断され、私たち学生は直ちに植民地軍医療班に志願した。郊外の爆発現場に急行するとけが人や死人が血を流して倒れている。こんな恐ろしい光景を私が見たのは初めてで、思わず身震いがした。

同じ8日にマレー半島北部に上陸した日本軍は南下し、1月には対岸のジョホ−ルに迫ってきた。白人の家族が続々シンガポールに避難してくる。退却してきた豪州兵はおびえきった表情をしていた。街では大砲に代わりライフル銃の音が聞こえはじめた。

2月のある日、私は家の外で英国兵とは違う制服を着た二人が歩いているのを見た。ゲートールを巻き、先のとがった帽子をかぶっていた。英兵捜索の日本兵と気がついて、一瞬、背筋に冷たいものが走った。私は急いで家に駆け戻り、家族と戸や窓を慌てて閉めた。レイプや虐殺など中国での残虐行為を聞き、皆、日本軍を恐れていた。

街では運転手や庭師が主人の消えた大邸宅を手当たり次第に略奪し始めた。英軍は15日日本軍に降伏した。永遠に続くと我々が思いこんでいた英国の支配が70日間の攻撃で崩れ去ったのだ。

私は日本兵に何度もひどい目に遭わされた。ある日たまたま豪州の帽子をかぶって歩いていると呼び止められた。銃剣で帽子を払われビンタされ、ひざまずくよう命令されたのである。

家族は郊外に避難して私が留守を守っていた家に日本兵が乗り込み、三日間宿舎に使った。私は身振りで命令、意味が分からず対応が遅いと何度もビンタを受けた。彼らは母が貯蔵していた食糧を好き放題に食べてしまった。私はベランダから見えた、収容所に送られる豪州兵にエールを送っていた。

日本兵が引き揚げた直後、日本軍が中国人は広場の登録所に集まれという。反日分子の摘発が目的だ。私は市の中心部に近い競技場ジャラン・プサールで登録した。二日目に私は登録所内の青年グループに振り分けられ、本能的に危険を感じた。

荷物を取りに行くための許可を得て外出、登録所に戻って一日半後、再び退出を願い出ると、なぜか認められた。腕とシャツに「検査済み」とスタンプを押された。後で知ったことだが、その時残されていた中国人青年は海岸で銃殺された。犠牲者は全体で5万人から10万人と推定されている。

友人たちも理不尽なひどい拷問を受けた。態度が反日的であるというのだ。シンガポールの中国人が中国の抗日戦争に資金援助していたことに日本軍は報復したのだろう。特に共産党支持の人々に日本軍は厳しかった。それにしても戦闘ではなくシンガポールが降伏した後の日本軍の行為は許されない。

英国の敗北の意味を、今のシンガポールの若者が理解するのは難しいと思う。それまで白人の優越感には疑う余地がなかった。英国人だけでなく白人はボスだった。我々はそれに何の恨みもなく、私も人生の現実として受け止めていた。

しかし、いまアジアの一民族が彼らに挑み、白人優越の神話を打ち砕いてしまったのである。しかし、日本人はいったん征服者になるとアジアの同朋に対して英国人より無慈悲であることを示した。私は日本の軍国主義を一貫して批判しているが、私自身や友人たちの忘れがたい体験に基づいてことである。(リー・クアンユー:日経新聞1月6日)




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