初詣

 今日は初詣に行って来ました。京急蒲田駅の近くの神社で済まそうと思ったのですが、ぶらぶらと京急梅屋敷駅まで歩いていく途中に、「そういえば、京急だったら、川崎大師へ行ってもそんなに時間はかからないなぁ。」と考え計画を変更、川崎大師に向かったのでした。

 梅屋敷駅で京急に乗り京急川崎駅へ。そこで大師線に乗り換え、川崎大師駅に辿り着きました。改札を出ると、駅前では献血を募集するスピーカーからのガナリ声が聞こえてきました。年末年始で、血が足りないとのことなのですが、私は注射が苦手なので、遠慮させていただきました。朝から何も食べていなかったので、血を抜かれると倒れてしまうかなという不安もありましたけど。(^^ゞ

 大師通りには、三が日が過ぎたにもかかわらずたくさんの人が初詣のために川崎大師に向かって歩いていました。通りの両端には出店がずら〜っと並んでいましたが、何処もあまり繁盛していないようですね。客が全くいないお店もたくさんありました。通りには人がたくさんいるんですけど、買い物をしようと言う気がおきないのでしょうか。ただ、不思議だったのは、同じ甘酒100円で売っていても、混んでいる店と客が全くいない店があるんですよね。正月なのにステーキを売っている店でも繁盛しているところは繁盛しているし・・。

 川崎大師について、お賽銭をいつもより多めに投げ入れ、今年一年の祈願を行いました。そしておみくじ。おみくじを引かないと初詣に来た気がしません。100円払って、おみくじ箱をがらがら振って出てきた番号は96番。渡されたおみくじは「大吉」。

 新年早々気分が良いですね。「大吉」だからって、人生が変わるとは思えませんが、やはり、新しい年を「大吉」を引くことで始められるのは、さい先がよいといえるのではないでしょうか。

 その後に、"誕生日占い"を200円で買いました。これも毎年恒例。初詣の際には、何処の神社やお寺に行っても必ず、おみくじと誕生日占いを買うのです。高島易団のやつです。これにも面白いことが書いてありました。「謙遜も度が過ぎると無能者に見られる。」とのこと。手を挙げるべ時には、謙遜せずに手を挙げるべきと言うことでしょう。肝に銘じて1年過ごしたいと思います。


日本の衰弱

 自宅に戻ってからは、読書。ロバート・A・フェルドマンの『日本の衰弱』と言う本です。随分前に買ったのですが、これも、昨日の『古事記の暗号』と一緒で"つん読"状況になっていたのです。ただしこちらは会社の机の横の本箱に・・・。書店のカバーに包まれていたので、既に読んだ本と区別が付かなくなっていたのです。大納会の日に席を掃除していて見つけだし、自宅に持ち帰ったのです。

 この本の出版は1996年。著者がこの本を書いてからは2年近く立っているのですが、日本が、その間、何も解決していなかったせいか、今読んでも十分面白い内容になっています。本の内容は『日本は高齢化が進む中で生活水準を引き上げていくことは非常に難しくなっている。これを解決するためには労働生産性を引き上げるしかない。そして生産性を引き上げるためには規制緩和が必要。』と言う趣旨でした。まぁ、この論理自体は既にたくさんの人が規制緩和を進めるために使っている論法ですし、そう珍しいことではないです。本の内容は、その論旨そのものよりも、どうやって規制緩和を進めるのかについて、方策とその可能性について論じることに主眼を費やしています。

 本題からはそれるんですけど、その本の中でいくつか面白い表現があったので紹介しますね。

 まずは生産性を上げるためには何が必要かという議論の際に出てきた話です。1866年のケーニヒグレーツの合戦でプロシアがオーストリアに勝てたのは、弾を銃身の前からではなく、後ろから詰める鉄砲を使ったからと言われている。しかし、マックニール教授に言わせると、そう言う鉄砲を使ったから勝てたのではなく、そう言う鉄砲を使いこなせる新しい組織を作ったから勝てたとのこと。同じ鉄砲を導入したフランスは、1870年の普仏戦争でプロシアに負けているんです。

 これはそのまま、現在の日本企業に当てはまりますね。さしずめ、『パソコンやイントラネットを導入したから経営効率が上がるわけではない。パソコンやイントラネットを使いこなせる組織を作った企業が、経営効率を上げることが出来るんだ。』とでもなるのでしょうか。実際、日本でもかなりの数の企業がパソコンを導入するようになり、それをネットワーク化していますが、経営効率を上げているという話はなかなか聞きません。今までのヒエラルキー的組織のままネットワークを導入しても結局上司への連絡、そして了解を得るために、書面や相対での説明を必要とします。そんな中でネットワークを導入しても、同僚同士のメール交換で麻雀の仲間を集めるときくらいしか、使われないと言うことでしょう。私は以前から、社長がパソコンを使わない限り、会社のパソコン利用率は上がらないし、経営効率も変わらないと主張してきました。しかし、この本の主張を取り入れると、それだけでは駄目なようですね。更にフラットな組織を作ることを諦めては、ネットワーク化による経営効率の向上は達成できないと言うことです。

 次に税制に関する考え方。これは私が著者に賛同できない主張の一つです。著者は、『税制改革が論じられるとき、日本でもアメリカでも税負担の平等と言う考え方が優先される。しかしこれからは、もっと経済的波及効果を考えて税制改革をやらなければならない。』と主張している。しかし果たしてそうだろうか。

 この考え方の基本には、税金を払うのはみんな嫌がると言う考え方があると思う。だから、税制によって経済の波及効果を予想することを可能だと考えているのだ。しかしながら、税金とは本来国民の義務であり、所得のある人が応分の負担をすることで、公共の福祉を充実させていこうと言うところにあるのではないか。そう考えると、税制を"国民を動かす道具"として考えるのには、賛同しかねるのである。

 最後に資産運用に関する話題についても、一言。著者は『年金を民営化しようとしたときの弊害として、運用会社に高い運用成績を上げようとする制度が整っていないことがあげられる。ファンドマネージャーが成功したときには高い報酬を得られる制度を運用会社が整えていないと、運用者がみんな同じポートフォリオを組んでしまう。』と述べている。

 これは非常に誤解を招く表現である。多分著者はポートフォリオを分散させなければならないと言うことを言いたかったのだと思う。しかし、運用会社の報酬制度を変えたからと言って、ポートフォリオが分散されるとは思わない。逆に、更にリスクが高まることも考えられる。何故なら高いパフォーマンスは、リスクをより多くとることで可能になるからだ。

 資産運用について論じる人のほとんどが、日本の年功序列は資産運用には向かない制度だと論じる。そして、年棒制(高パフォーマンスには高報酬)で報いるべきだと結論づけるのだ。私はこの議論について、一つ重大な欠点を見つけることが出来る。それは"期間"の概念が抜け落ちているのだ。日本の場合、年二回の賞与があるため、基本的に人事評価も年二回となる。つまり半年に一度のパフォーマンス評価で果たして、有効なのかという点である。素人ほど、この点に関して楽観的だ。競争は、全体の平均を押し上げる。高い報酬を目指して競争することで、受益者はメリットを享受できるというのである。しかし、半年のパフォーマンス評価なんて、さいころを振るのと対して代わりはない。半年のパフォーマンス評価をしても、優秀だと評価されるファンドマネージャーがころころ変わるだけで、平均点など上がらないのである。より長期に運用してこそ、リスクを下げる、つまりボラティリティを引き下げることが出来るのである。半年間のパフォーマンスがトップになるファンドマネージャーよりも、数年間、または数十年間、上位3分の1、または4分の1に居続けるファンドマネージャーこそ優秀であり、評価しなければならないのである。米国ではクオーターズと言って、ファンドマネージャーの上位4分の1(上位25%)に何年続けて入ったかが、評価の分かれ目になると聞く。日本でもそう言った考え方が普及しない間に、年棒制だけ導入しても、更にリスクの高い運用がなされるだけではないかと思うのである。

 2年前に書かれた著作の、それも、本題からかけ離れた枝葉の部分で、ぐだぐだと論じてきたが、まぁ、それだけ真剣に著作を読んだと言うことの証明でもあると思うので、著者も許してくれるだろう。



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