静かな正月

 今日は大掃除。と言っても、狭い部屋ですから、掃除する場所も少ないのですが、窓の桟や電気のスイッチボックスなど、普段は拭かないような所を、マイペットで丁寧に拭くと、驚くくらいに綺麗になります。本当はこんな色だったんだと、改めて、汚れが部屋全体をくすんだ雰囲気にしていたことに驚いてしまいます。

 大掃除の最中に面白そうな番組があったのでちょっと一休み。新聞では『イギリス流人生の楽しみかた』と書いてあったのですが、内容は横山周一郎とかいうコンサルティング系の人が、バージングループの社長とかアーチャー卿(史上最年少で議員になった人らしい)、そして、一般の人達にインタビューをして、クオリティ・オブ・ライフとは何かを考えていこうという趣旨でした。

 この番組の中で、横山氏が教育についてインタビューをしている場面がありました。アーチャー卿に対して、「日本の教育のあり方をどう思うか?画一的な教育が現在の経済の停滞を招いているのではないか。」と問うと、アーチャー卿は「日本の教育問題を我々が論じることなど出来ない。日本の教育水準は高い。識字率は世界一だし、大学への進学率だって世界一だ。ただ、反逆児が出てこないだけだ。世界を変えるのは何時だって反逆児なんだから。バージングループの社長だって、私だって・・。」とのこと。

 う〜ん、考えてしまいましたね。教育の在り方に問題の所在を突き止めようとした横山氏も、返す言葉がないという様子でした。日本で反逆児が出てこないのは教育システムに問題があるからではないですよね。だって教育で反逆児を作り出すことなど出来るはずがないんですから。そうすると、日本で閉塞感を打破できないのは、国民性の問題でしょうか。

 それとも日本で反逆児が現れるのを期待しても良いのでしょうか?日本の場合、反逆児は、システムよりも、社会そのものから拒否されるような気がします。日本では、そういった言い換えると異端児を迎え入れるような考え方を持たないですよね。どちらかというと、みんな同じように頑張って、みんなで作り上げていくという方向に、価値観を見いだす国民ですから。

 そうすると、反逆児を期待するよりは、組織としての日本が、組織として現状の閉塞感を打破するまで根気よく待つしかないのでしょう。

 ただ、私はそこまで我慢できませんよ。


古事記

 大掃除も一段落してからは、静かに過ごすことに。テレビも、つまらない番組が多くてすぐに飽きてしまったので、久しぶりに、アール・クルーのFinger paintingを聞きながら、読書に興じました。今日読んだ本は、『古事記の暗号』。以前『聖書の暗号』と言う本を読んだので、その続編みたいなものかと思いつつも、思わず買ってしまった本が、ずっと"つん読"状態だったので、一気に読んでしまったのです。

 以前よんだ『聖書の暗号』は本当に暗号解読のように聖書を解読していった本でした。暗号としては初歩的なものだと思うのですが、全ての聖書の言葉を間隔をあけずに羅列し、等間隔に文字を拾っていくことで、予言を解読しようとの試みでした。コンピューターの時代だから出来た事だと、その本では自慢していました。でも、読む方としては何も面白くなかったんですよね。謎解きも何もない。ただ、何文字毎に単語を拾ったら、○○ということばと、××と言う言葉が、近くに現れた。これは、17××年のあの事件のことを言っているに違いない!何て調子で、ずっと、解説してあるだけ。

 『古事記の暗号』も同じパターンかなと思ったんです。それでも、『聖書の暗号』と違って、日本のことに限られているだろう。だとしたら、少しは、現在の日本経済の低迷に触れられ箇所があるかもしれない。それなら、多少は面白いかもしれないと思って買ったのでしたが・・・。

 読んでみると全く違いました。暗号という題名に惑わされてはいけません。暗号文として古事記を読むのではなく、古事記を通して先人達が何を伝えたかったのかを、解読していこうという趣旨の本なのです。その材料は、一つが文字。漢字(特に人の名前)の意味するところをその語源と音から探ることで、解読を試みています。

 そしてもう一つの材料が易。あの積み木みたいな細長い棒に一本の線か、途中で途切れている線のどちらかが書かれていて、これを3つ組み合わせるやつです。よく占い師が使っていますね。3つの組み合わせですから2×2×2=8で8通り。これを八卦と言い、これを二つ組み合わせることで、64通りの意味を持たせ、自然の摂理を表しているのだそうです。

 これら二つの材料を元に、古事記を解読していくのですが、結局この本によると、古事記は陶器、そして稲作についての作業を、大国主神の生涯に投影しているのではないかとのことなんです。

 全然関係ないですけど、この本を読んでいて、ふと思ったのは、洋の東西を問わず主食は、何故手間のかかる食品なのだろうということ。お米は、ご存じのように、刈り取って直ぐ食べられるわけではない。脱穀、精米、そしてお米を炊くときだって、今や炊飯ジャーでスイッチポンだが、昔は、炊きあげるのにだって、いくつかの工程(?)があった。西洋でパンが主食と言うことではないが、パンを作るのだって一苦労だ。小麦をそのまま食べることは不可能だろう。粉にして、それをこね合わせ、焼き上げてやっとパンになる。

 現代では、パンや米が栄養素として、重要な役割を果たすことが分かっているからこそ、主食の意味も理解できようが、果物のように、取ってきて直ぐ食べられる物でなく、手間のかかる食品を、世界中で主食にしていることに、ちょっと疑問を持ってしまいました。



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